「歌との出会いは、初恋のようなものかもしれない。」
短歌研究2005年4月号、永田和宏の「高い評価がその後それほどでもなくなった歌」というテーマの文章の冒頭である。これは私も興味深く読んだ。「いいものはいい。『出会ってしまった』という、その一点でもういいのである。」それは説明しきれないものだとしている。
「それがいつしか心ときめかなくなっている」例として、葛原妙子の歌を上げている。客観的な評価は変わっていなくても、肝心の心躍りの<感じ>がなくなっている。永田はその変化もまた説明できるものではないとしている。
塔2005年5月号、西之原一貴は、短歌時評 『<感じ>について』 で、永田のこの文章を取り上げている。西之原は葛原の歌に対する<感じ>の変化を説明できないとしてしまうことには物足りなさを感じているらしい。
この、もう一歩踏み込んで考えようとする、歌人としての一途な姿勢に触れると、私はつくづく自分は評論には向いていないかなと思ってしまう。<感じ>を殺さないどんな理論がありうるのだろうか。
しかし、西之原の指摘もずっと心にひっかかり続けている。<感じ>の世界に籠らずに、しんどくならない程度に周辺を見回していこうかと思っている。